天満宮のご祭神は、菅原道真公であり、古来学問の神として、特に学生の間に強い信仰を集めておられます。大元 宗忠神社のご祭神である宗忠大神もご在世中に「天満宮」なる御神号を認(したた)められ、天神様に対する崇敬の念も篤いものがありました。従来、大元 宗忠神社も学問の神として多くの方から崇敬を集めてまいりましたが、特に、入学試験に当たって合格達成をかなえてくださる霊験あらたかな神を奉斎し、学生の皆様の願望に添いたいと、御神縁深い大阪天満宮から御神霊を奉戴して大元 宗忠神社の境内社としてお祀りすることになりました。
両社とも学問の神として皆様の崇敬を集め特に入学試験に当たって合格達成の御加護を賜ることと確信いたします。
明治38年(1905年)5月27日、日露戦争において当時世界最強のバルチック艦隊(ロシア)を迎え撃った日本側の司令長官東郷平八郎(後の元帥)は、ご祭神(黒住宗忠神)の「身も我も心もすてて天(あめ)つちのたったひとつの誠ばかりに」との御歌を吟じながら全軍を指揮したと伝えられています。
今も境内に立つ大元 宗忠神社の社名碑は、東郷元帥が染筆したものです。
「大元学院」(現在の黒住教学院)として、黒住教の教師養成機関の建物でした。現在では、黒住教奏楽寮となり、別名吉備楽道場と呼ばれています。ここで稽古を重ねた吉備楽楽人は大元 宗忠神社祭典で奏楽奉仕をつとめます。
吉備楽に興味をお持ちの方は社務所までお問い合わせください。
参拝者の皆様の「ご祈念」を、宗忠大神様に祈る神聖な建物です。四季折々の行事はもとより七五三など、様々な願い事のご祈念をここでつとめます。冷暖房を完備しています。
ご祈念のお申し込みは社務所までお問い合わせください。
ご祭神 天照大御神、住吉大明神
古代日本において、卑弥呼と並び称されている神功皇后が新羅遠征に赴くとき、 現在の岡山県瀬戸内市邑久町虫明にその足跡をとどめられ、信奉する天照大御神と住吉大明神とを斎きまつったということが伝えられています。
しかし長い年月は、その伝承とともに神々のご鎮座をも薄れさせていましたが、昭和63年8月、敬神の念篤き方々の奉仕により、ここ霊地大元に境内社 住吉宮としてご鎮座になりました。住吉大明神は特に海上安全の神として知られ、広く崇敬を集めています。
嘉永元年(1848年)に建築され、ご祭神(黒住宗忠神)がご布教なされたところで、今日では記念館として大切に保存されています。
この建物では、ご祭神在世中、2の日、7の日の月6回、「ご会日」という名のもとにご祭神の直々の祈りと説教が行われました。ここでは武士といえども刀を付けては神前に進むことはできず、身分の差別なくまさに人間平等の精神が貫かれていました。
大元 宗忠神社での神前結婚式は、この教祖記念館で厳粛に執り行われます。
ご祭神は次の十一柱の御霊神であります。石尾乾介高弟、河上忠晶高弟、時尾宗道高弟、赤木忠春高弟、星島良平高弟、森下景端高弟、池田千代蔵高弟、河本泰祐高弟、小林倹造高弟、野々上帯刀高弟、森金為蔵高弟
宗忠大神には御在世中、万をもって数える門人があり、中でも特に勝れた高弟を六高弟七人衆と尊称しています。
七人衆は宗忠大神が御昇天の直後、大神の御神恩にお報いするため、現在の岡山県(備前、備中、美作)を中心として、それを取り巻く諸国を対象とした大布教を展開されました。2年半の間に数多くの人々を救い導き道開きに努められ、今日の黒住教の基礎を築かれました。
ご祭神は「宗忠大神」(むねただのおおかみ)様です。大神様は「開運の神様」として現在も崇敬を集め今日に至っています。
ここ「本殿」では、限られた時のみ許される「通り抜け参拝」の時以外は立ち入ることができません。「通り抜け参拝」の時には、しっかりとおかげをいただきましょう。
武道館は、明治32年(1899年)に黒住教大教殿として建築され、昭和49年、岡山市北区尾上の神道山に黒住教本部が移ってからは武道館として使用しています。